HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲3 Nacht

3 過去を映す風


その日の夜。約束通り、8時ジャストに増野が訪ねて来た。
玄関チャイムが鳴ると、ハンスはすぐにドアを開けた。
「夜分遅くに申し訳ありません」
増野は余程急いで来たのか、僅かに頬を上気させていた。
「ああ、お待ちしてましたですよ、増野さん」
ハンスは喜んで迎えた。が、増野は少し怪訝な顔をして彼を見た。
「髪の色、変えられたんですか? それに、目の色も……。どうして……?」
「ええ。少しイメージチェンジしたんです。ついでに名前も、今はハンス・D・バウアーと名乗っています」
「そうですか。実はその……」

増野は一人ではなかった。背後にはもう一人、連れの男がいたのだ。その人物をハンスは凝視した。男は黒い着物姿で細い黒淵の眼鏡を掛けていた。
「増野さん、こちらは?」
ハンスが訊いた。
「ああ。茅葺先生です。大学で美羽さんの本の研究をされているということで、ぜひ、息子さんであるあなたにもお会いしたいと言うのでお連れしました。ご迷惑だったでしょうか?」
「いえ、僕は構いませんけど……」
躊躇うようにハンスが言う。

「突然押し掛けてしまって申し訳ございません。私は茅葺庵(かやぶき いおり)と申します。どうぞ、お見知りおきを……」
男は穏やかで品のいい微笑を浮かべると、名刺を差し出した。ハンスはそれを受け取ると男の顔をじっと見つめた。
「いつも着物を着ているんですか?」
ハンスが訊いた。
「ええ。これが私のトレードマークですので……」

「不思議だな。あなたとは前にもどこかで会ったような気がする」
もらった名刺を何度か反転させてハンスが言った。
「会っているのですよ。1度だけ……」
庵の言葉にハンスは首を傾げて考えてみたが、まるで心当たりはなかった。
「あなたはお母様にそっくりだ」
微笑を浮かべて男が言う。
「ええ、本当にその通りなんですよ。去年は黒髪でいらしたから特にそう思いました」
付け足すように増野も言った。

「いや、その……。先程は大変失礼なことを言ってしまってすみませんでした。去年と随分印象が違っていたものですから、ちょっと戸惑ってしまって……」
そう言うと増野は掛けていた眼鏡のフレームをゆっくりと指でずらした。
「そうかもしれませんね。でも、大丈夫。僕は気にしていません。それで、茅葺先生は一体いつ、僕と会ったのですか?」
ハンスが訊いた。
「お母様はドイツに発つ寸前で、私はまだ8つの子どもでした。でも、その時にはもう、彼女のお腹にはあなたが宿っていたのです」
「そんなの覚えていないな」
向き合う二人の間には深い霧のような時間がたゆたっていた。

「そうでしょうね。でも、私は覚えていますよ。あなたとは絆で結ばれていますから……」
「絆?」
ハンスは少し警戒するようにその男を見つめた。
「そうだったんですか。それじゃあ、星谷先生が文京のマンションにおられた時ですよね? その頃、私もよく編集者としてそのマンションを訪れていましたから、ひょっとしたら、私とも何処かですれ違ったことがあったかもしれませんね」
増野が言った。
「その可能性は否定できませんね」
庵も答える。それから、ハンスの方に向き直って言った。

「でも、残念です。できれば私も見たかったですよ。あなたが黒髪でいるところを……。確かに容姿は大事ですよ。特に何かを誤魔化したい時には……。でも、偽りの色など、あなたには不要でしょうに……」
庵が柔らかく笑う。
「何を言いたいのですか?」
ハンスが訊いた。
「別に何も……」

「あら、そんなところで立ち話していないで、どうぞ中へお上がりくださいな」
美樹が奥から出て来て言った。
「では、失礼します」
増野が上がり、続いて庵が草履を脱ぐと優雅にしゃがんでその向きを整えた。その様子をハンスはじっと見ていた。
「和装は珍しいですか?」
「ええ。とても興味深いです。旅館で着た浴衣とは違うようだし……」

リビングに入ると、増野が早速鞄から美羽の作品を取り出して見せた。
「これが星猫シリーズの初版本です」
黒い宇宙に散りばめられた小さな星と、抑えた色彩のキャラクター。絵本にしてはシックなデザインだったが、カラフルな絵本の棚にあったら、注意を引くだろう。
「それと、頂いたクリスマスカード。ほら、ここに彼女の手描きのキャラクターがいます」
増野は他にも幾つかの原画や絵葉書を持って来ていた。ハンスはそれらを熱心に見ていた。

が、やがて、顔を上げて訊いた。
「ところで、増野さん。母様がドイツ人の父様と知り合ったわけを知ってるですか?」
「ああ。私も詳しいことは存じませんが、確か大使館で開かれたパーティーに招かれた時だと伺っています」
「パーティー?」
「ドイツは子ども向けの本が盛んに出版されていますし、優秀な童話などに贈られる賞とかもありますし、美羽さんも興味がおありだったようです」
その時、増野の携帯が鳴った。
「失礼」
そう言うと、増野は席を外した。

「ところで、あなたは何故、日本に来たのです?」
庵が話し掛けて来た。
「母様の生まれた国だから……」
ハンスが答える。
「それだけですか?」
「それに美樹がいるから……。僕は彼女と結婚したいと思ってるんです」
「先程の女性ですね。では、彼女を連れて、すぐにドイツにお帰りなさい」
「えっ?」
ハンスには、その意味がわからなかった。

「この国には、茨の棘がありますよ。場合によっては猛毒も……」
巡回する温風に混じった冷たさに、ハンスは顔を顰めた。
「でも、きれいな野ばらにだって棘はある。それに、毒は薬にもなるでしょう?」
リビングにはその日、ハンスが買って来た電飾の飾りやクリスマスの人形などが箱のまま置かれていた。
「つまり、見てみたいと?」
「いけませんか?」
箱の一つは開いていて、そこから緑の枝と赤い木の実が覗いている。
「そう。あまり感心しませんね。でも、好きですよ。そういう考え方は……。何事も自ら観察してみようという好奇心から、すべての道は開けて行くものですから……」

「それでも、あなたは僕に帰れとおっしゃる」
「そうです」
掛け替えられたカーテンはクリスマスカラーの緑に、星やサンタの模様が付いている。
「それは僕がドイツ人だからですか? 外の人間だから……?」
「いいえ。むしろ、その逆ですね」
「逆? だったら何故? 日本人である母様の血が流れてる僕には知る権利がある筈でしょう? だから、ここに残る」
「なるほど。あなたは頑固な性格のようですね。なかなか好みです」

その時、美樹がお茶と黒蜜の和菓子を持って来てテーブルに置いた。
「よろしかったらどうぞ」
「ありがとうございます。これは、なかなか良い趣味ですね。失礼ですが、あなたのご職業は?」
「作家です。小説を書いているんです」
美樹が答える。
「著作を見せていただけませんか?」
「えっ?」
突然言われて、彼女は戸惑っていた。

「何を迷うの? 素敵なお話たくさんあるじゃない?」
ハンスが言った。
「僕はいつも、彼女からお話を聞いているのですけど、悲しいのや楽しいの、いっぱいあるんです」
「聞いている?」
庵が怪訝な顔をしたので、ハンスが説明した。
「僕、文字が読めないので……」
「日本語だから?」
「いいえ……生まれた時、僕は息をしてなかったです。それで少し不自由なところが残りました」

「そうでしたか。では、勉強の方は音声で?」
「はい。でも、勉強は得意じゃありませんでした。でも、美樹のお話は好きです」
「では、君が一番好きな彼女の小説は何ですか?」
「えーと、一反木綿に憑かれた女の子の話、すごく面白いです」
「ほう。一反木綿ですか。九州地方に伝承されている妖怪ですね。顔を覆い、巻き付いて窒息させると言う。そのルーツは百鬼夜行に描かれた絵、あるいは土葬の際に使われた旗やムササビだという説もある」
「お詳しいんですね」
美樹が感心して言う。
「そもそも私の専門は民俗学と文化人類学を合わせたような分野なのですよ」
「そうだったんですか」
美樹が興味深そうに頷く。

「では、その本を見せてくださいますか?」
「それはその……。同人誌で書いてた物なので……手元にないんです」
「では、あなたの本領で書かれた作品は何でしょう? 教えてくれますか?」
「本領……?」
彼女は言葉に詰まった。その言い方にも引っ掛かるものを感じたし、何よりその男に見つめられると、背中がざわざわとして落ち着かなくなるような気がした。
「美樹、君はもう向こうに行ってていいよ」
突然、ハンスが会話に割り込んで言った。
「でも……」
困ったようにその顔を見つめる。

「いいから来て!」
ハンスは立ちあがって彼女の手を取ると強引にリビングの外へ連れ出した。
「どうしたの? 急に……」
キッチンまで行くと美樹が小声で訊いた。
「君をあの男の傍に置きたくないんだ」
囁くように彼が言う。
「何故?」
「わからないけど……あの男は、何か危険な匂いがする」
「そうね。上手く言えないけど、あの人に見つめられると、心の底まで見透かされているような気がする……」
そう言うと彼女は、ハンスに言われるまま書斎に上がった。

「私は……。何かあなたの気の障るようなことを言いましたか?」
戻って来たハンスに庵が訊いた。
「あなたは彼女を困らせた。そういう彼女を見るの、僕は好きじゃないんです」
「何故、彼女は困ったのでしょう?」
「それは、僕にもわかりません」
庵はテーブルに置かれたままになっている絵本にそっと触れて言った。
「それは、彼女があなたのお母様と同じ能力を持っているからではありませんか?」
「母様と同じ……?」
ハンスは唖然として男を見つめた。

「おわかりになりませんか? 妙ですね。私はてっきりあなたが彼女に魅かれた理由はお母様と同じ風の能力者だからなのかと思いましたけど……」
穏やかな声だった。が、そこに含まれた旋風が、ハンスの心を掻き乱した。
「何故そんなこと言うんですか? 僕は母様が風の力を使うところなんて1度も見たことがないのに……」
「見たことがない?」
心の中を覗き込むように男は言った。
「そうさ! そんな力があるなら、あの時……」
そう言い掛けてハンスは口を噤んだ。鋭い痛みが胸に走った。鼓動が大きく頭に響く。彼は胸を押さえて目を閉じた。

「あの時……」
父が振り下ろしたナイフから自分を守ってくれた母のやさしさを思うと、身体が震えた。
「父様の手からナイフを取り上げることだって出来た筈だ。風の力が使えたならば……」
過去を映した風は、ハンスというフィルターの向こうで吹き荒れていた。
「逆に凶器を奪って父を殺すことだって出来たんだ。なのに、母様はそうしなかった。それは、母様にはその力がなかったからだ。違いますか?」
遠い耳鳴りのような風が彼の心で渦巻いていた。

「その時にはまだ、あなたにもその力はなかったのですね」
庵は黒く凝集した悲しみを愛でるように訊いた。
「そうさ! だから、僕は母様を助けられなかった……。僕は……!」
両手を強く握り締めて唇を噛み締めている彼に、庵は言った。
「可哀そうに……」
昔、美羽の手によって描かれたツリーと十字架が彼らを見つめる。

その時、増野が戻って来た。
「申し訳ありません。ちょっと社の方がごたごたしておりまして……」
しかし、ハンスが涙を流しているのを見て、彼は動揺した。
「どうかされたんですか?」
「ああ。私がいけなかったのです。昔のことを思い出させてしまって……。お母様が亡くなられた時のことを……」
「何ですって?」
増野は狼狽した。
「そんな……。おいたわしい……。いったい何と言ってお慰めしたら良いのか……」
増野は呆然として、そこに佇んでいた。

「今はそっとしておいてやることが一番でしょう。増野さん、今日のところはいったん帰りましょう」
庵が言った。
「しかし……」
困惑する増野を追い立てるように学者は席を立った。増野は名残惜しそうに振り返ったが、鞄を持つと先に玄関へ向かった。

「悲しいことを思い出させてしまってすみませんでした。でも、また寄らせてもらいます。私はあなたのお役に立ちたいのですよ」
帰り際、和装の男が囁いた。
「あなたは一体誰なんだ?」
ハンスが顔を上げて訊いた。
「今は、一介の学者に過ぎません。けれど、私も、元は梳名家の人間だったのです」
「梳名家の……?」
ハンスははっとして、その男の後を追った。

「どういうこと?」
ハンスが玄関に行くと、もう二人の男の姿はなかった。慌てて靴を履き、ドアを開けると車は家の前を出発してしまった後だった。
「待って! あなたは……」
家に取り付けられた電飾の光が、彼の背中を照らしている。

――また寄らせてもらいます

「茅葺庵……。彼も能力者なんだろうか? きっとそうだ。母様のことも知っていたし、風の能力のことも……。あの男は僕の知らない何かを知ってる。だけど、彼は本当に味方なんだろうか?」

――あなたのお役に立ちたいのですよ

「本当に……?」

――私も梳名家の人間なんです

「それなら何故、最初にそう言わなかったのだろう?」

――今すぐドイツへお帰りなさい

「わからないことだらけだ」

「お客様はもう帰ったの?」
美樹がリビングに来て訊いた。ハンスはじっと俯いたままソファーに掛けていた。
「ええ。もう帰りました」
その声には覇気がなかった。
「どうしたの? 何かよくないことでも……?」
「いいえ。でも今は、君がここにいてくれたらいい。僕の隣に……」
出されたままの茶器を片付けようかと手を伸ばし掛けた美樹だったが、取り合えず、彼の隣に座ることにした。すると、彼は縋り着くように彼女を自分の方に引き寄せた。

「どうしたの? 本当に……」
必死に感情を押し殺そうとしている彼の背中を撫でて訊いた。
「今すぐ君を連れて帰りたいんだ」
「帰るって……。どこへ……?」
「あの男が言ったんだ。今すぐドイツへ帰れって……」
「あの男って? 茅葺先生のこと?」
「そうさ。でも、無理なことですね。僕はもう、ドイツへ戻ったところで居場所がない」
「居場所がないって?」
テーブルの上には美羽の絵本やカードなどが置かれたままになっていた。そこに描かれた猫のキャラクターの目がじっと彼らを見つめている。

「本当は僕達、逃げて来たんだ。ドイツから……」
彼は美樹の肩に凭れると目を閉じて言った。
「どういうこと?」
問われた彼は顔を上げたが、視線を逸らしたまま、強い口調で言った。
「言葉通りさ。染みついた過去から逃れたくて日本に来たんだ。名前も容姿もぜんぶ変えて! なのにいつだって過去が付いて来る。そして、僕を苦しめるんだ!」
部屋の隅では、暖炉の炎を模した赤い光が静かに揺らめき、そこから流れ出た温風が部屋の中を巡回していた。

「辛いの?」
彼女はその背を撫でながら訊いた。彼は目を閉じたまま頷く。
「でもね、ハンス。過去を捨てるなんて無理なんじゃないかしら?」
彼は凭れていた彼女の肩を掴んで自分の身を離すと、じっと彼女を見つめた。
「どうしてそんなこと言うですか?」
「だって、その過去だって、切っても切れないあなたの一部だから……」
「僕の一部?」
「そうよ。切り離すことなんか出来ない一繋がりのパーツなんだもの」
視線の先にはピアノがあった。

「だとしたら、僕は本当に酷い奴だ。君はいいのか? そんな男を受け入れて……」
照明が瞬き、世界が反転したように思えた。
「……受け入れる」
「本当にわかっていますか? 僕は、君を破滅に導くかもしれない……」
諭すように言った。が、彼女はじっと彼を見つめて微笑した。
「いいよ……気にしない」
「美樹……」
ハンスはそんな彼女に頬を擦り寄せると強く抱いた。あたたかい呼気が首筋に掛かると、鼓動が激しく打つのを感じた。
(これは僕の宝物だ。心臓を持った、僕だけの……特別な女の子……)

からくり時計が時を刻む。その扉の奥に隠れた人形の一つは、30年以上も前、美羽が描いたイラストのそれと酷似していた。
「そうよ。一年前、あなたが海に捨てたエンゲージリング」

――これは、もう僕にとっては必要のない物になりました

そう言うと、彼はそれまで大切にしていたその指輪を海に還したのだ。

――僕は決めたんだ。過去を捨て、君のためだけに生きると……

「あの時……?」
「そうよ。あの瞬間から運命は動きだしたの」
美樹が言った。
「そうだね。あれで、僕の心は解放された。そのつもりだったのに……。気がついたら僕はまた別の衣装を着せられて、別の役を演じることになった。今度はいつ巡って来るんだろう。君を愛するだけのピアニストの役は……」
「きっとなれるよ。これから努力して少しずつ変わって行けばいい。カノンのように……。あなたが弾くピアノが好きよ。だからお願い、もう一度ピアニストとして……」
すると、さっと立ち上がってハンスが言った。

「ルビー・ラズレインは死にました」
「ハンス……」
「そう。ルビーは死んだはずなのに、奴の影は僕に付き纏って離れない……!」
彼は拳をソファーに叩きつけた。

――ルビー。君は光になれるよ。闇を照らす赤い宝石に

(シュミッツ先生……)
彼はそっと左手を開いて見た。強く握り締めていたその手が微かに震える。
(光……。だけど先生、強過ぎる光は凶器になる。すべてを溶かし、自分をも溶かし、すべてを奪い尽くしてしまうんだ!)

「ハンス……。ごめんなさい。わたし、そんなつもりじゃなかったの」
リビングを出ようと歩き始めた彼を追って来た美樹が言った。
「放っといて!」
ハンスは叫んだ。
「外に行く。ここは暑過ぎるから……」
そう言うと彼は玄関で靴を履いて出て行った。美樹は黙ってそれを見送った。